吉野ケ里遺跡で人間の歴史は争いの歴史だと思わせられる少し悲しい思いをした

佐賀の名所は?と友人に聞いたら、すぐに「吉野ヶ里遺跡!」と返事が返ってきた。歴史好きなら当たり前だけれども、やっぱり全国区の名所となると、弥生時代の遺跡が大規模に発掘され、教科書にも載っている吉野ヶ里遺跡は有名です。

その吉野ヶ里遺跡に実際に行ってみて、遺跡をぐるっと回ってみて感じたことを紹介したいと思います。

目次

駅から少し歩いて「吉野ケ里歴史公園」へ

吉野ケ里遺跡は、遺跡を発掘復元しているエリアを中心に、歴史公園センターやグラウンドゴルフなどがある遊びの原、古代植物の森など約117ヘクタール(117万㎡)におよぶ広大な「吉野ケ里歴史公園」として整備されています。

駅を降りてすぐに麦畑。のどかなところです

吉野ケ里公園駅からはのんびりと小麦畑や用水路が流れるのどかな風景を見ながらあるいて15分ほどで東口から入って歴史公園センターに到着。券売機で入場券大人420円を購入して入場です。

公園の東口に到着。ここから遺跡入口までまだ260mぐらいあります

なお、歩くのは嫌という人は、駅の階段を降りたところでレンタサイクルを借りると良いでしょう。9時~17時30分まで借りられて1日200円と格安です。

レンタサイクルは吉野ヶ里公園駅コミュニティーホールで借りられる

天の浮橋を渡って遺跡エリアへ入る

仰々しい名前が付いていますが、田手川という小川を渡るための小さな橋です。浮き橋っぽいところも、天っぽいところもありません。風景はのどかな田舎って感じです。

と、思ったら、北の方に宮殿のような茅葺きの館が見えて興奮してきます。

北内郭が見える

実は電車の中からも集落っぽいのは見えましたが、一瞬だったので、橋からの景色で「吉野ヶ里遺跡に来た!」という興奮が一瞬で高まります。もしかしたらこの高揚感を指して天の浮橋と名付けたのかもしれません。

集落への入口

橋を渡りきると集落への入口の門があります。そして門の左右は高い柵が建てられ、その裏には堀が掘られ、さらに侵入者を妨害する尖った杭(逆茂木・乱杭)が刺さっています。

かなり物々しい雰囲気

いきなり、吉野ヶ里遺跡が外敵からの脅威にさらされていた村であることを突きつけられました。もっとのどかで和やかなイメージを持っていました。

説明看板には米作りが盛んになって、水や土地を奪い合う争いが起こるようになり、集落を守るためにバリケードを築いていたことが記されています。この時代から人々はバトルし続けているんですねー

遺跡の中に入って少し南へ進み「弥生くらし館」へ

ちょっと南へと進むと、コンクリート壁と長い片持ち梁のエントランスがある「弥生くらし館」が現れます。

スタイリッシュ建築

館内には、弥生時代の日本を記した「魏志倭人伝」のパネルが掲示されていて、日本語での読み下し文や解説があります。

邪馬国とか奴国とか書いてある

歴史で習った、邪馬台国への行き方や女王がいたことなどが書いてあって、少し興奮です。いまだに、というか結論がでそうにもない邪馬台国がどこだったか論争、生きている間に何か決定的な証拠でもでてくれないかなーって思います。

「魏志倭人伝」と土器復元作業を見学できる公開作業室があるエリアを抜けると、最大300人を受け入れられる広々とした体験工房にでます。行った時は、なにも開催されていなかったので、がらんとして寂しい感じでしたが、高床式倉庫のミニチュアが精巧で気に入りました。

これを体験工房で作れたらすごいけど、違うんだろな

初めての竪穴住居は突然に、そして「南のムラ」へ

ここまで、集落を入ってから「弥生くらし館」を抜けるまで竪穴住居を見ていなかったのですが、体験工房の外には1軒の大きな竪穴住居がドンと現れます。

不意に現れる竪穴住居

そして少し歩くと、天や地、水などの神霊への祭りが行われた「祭壇」、そして20軒以上が建ち並ぶ「南のムラ」へと入っていきます。

祭壇には建物はなかったみたい。単なる草ぼうぼうの盛土

南のムラ遠望

南のムラでは、とある一家が農作業や出入り口の警備をしていた、また別の一家は勾玉作り、というように、一家のムラの中での役割まで解説されていて、そんなんわかるものかね、と懐疑的な気分で見て回っていました。

んで、竪穴住居は中にも入れるんですね。地面より、ちょこっと掘ってあって、土壁で塗り固めていたのかな、屋根が高いので意外と中の空間は広くて、暑い寒いがなければ結構快適そうでした。

壺とか申し訳ない程度に置いてある。もっと生活感ちょうだい

内部は頑丈そうな作り

また、養蚕のための高床式倉庫なんかも中に入れます。

ねずみ返しもちゃんとある

養蚕からの製糸のイメージ

屋根の吹き替えの作業も見ることができました。やっていたのは宮大工のように茅葺屋根専門の職人さんなんでしょうか。

茅葺屋根の吹き替えは数百万や1千万単位になることもあるそう

南のムラの北の端まで来るとまた柵が見えます。ほんと集落を一周ちゃんと囲わないと安心できなかった当時の情勢が浮かんできます。また、南のムラは北内郭や南内郭に住む支配層の生活を支えるという身分だったそうです。暮らしはきつかったのかな、楽しく暮らせていたのかな、とちょっとどんより気分になります。

牧歌的だけど防衛施設の柵が当時の現実を突きつける

遺跡から発掘された資料を展示する「展示室」

南のムラから南内郭へと向かうと、南内郭の手前に南内郭を守っていた出城のような存在の南の守りがあり、そこには「展示室」があります。ここでは、色々な資料を展示しています。

庶民と上流階級の差

例えば、庶民が着ていた貫頭衣や上層人(支配層)が着ていた染色ありの衣装ははっきりと身分の差があったことを実感できます。

お腹に矢を10本打ち込まれるって相当だよね。処刑とかだったのかも

また、腹部に10本の矢を射込まれた人骨の写真、首なし人骨など、犠牲者の資料もあります。当時の戦いがちょっとしたいざこざって感じではなく、はっきりとした戦闘であり、戦いで生き死にがあったことをまざまざと見せつけてくれます。

なんでしょうね、三国志とか戦国時代とか、当然戦闘で戦死者もでるのにあっちはワクワク、ドキドキ、浪漫すら感じてしまうのに、牧歌的で平和だと思っていた弥生時代の遺跡で血なまぐさいものを見せられると、げんなりするのは、弥生時代に過度な良いイメージを持っていたせいだと思います。

吉野ケ里の国の政治を行っていた「南内郭」

柵が張り巡らされ、木製の鳥形がのせられた門をくぐるとそこは「南内郭」。国の大人(たいじん)が暮らし、政治を行っていた場所ということで、国の中枢に当たります。

カワイイ鳥がのった門に、悲しい気持ちも癒やさえる

重要エリアだけに、各所には物見櫓が建てられ、櫓に上ってみると、遠くの山並みなど、周囲一帯を見渡すことができました。

でかい物見櫓。当時は、兵士が目を光らせていたのでしょう

二重の柵が南外郭の重要性を物語る

お偉いさん方の家

活気があったであろう「倉と市」エリア

「南内郭」の西には「倉と市」エリアがあります。ここは、作物などを貯蔵しておく倉庫群があった場所で、市も開かれていたと推測されています。市はいろいろな物資や人が集まるもので、とにかくガヤガヤと賑やかな場所のイメージ。当時も物をやり取りする熱気に溢れていたのではないでしょうか。

租税や市に関わる物を保管する倉庫や、祭りを行う「祠堂(しどう)」、市を管理する建物「市楼(しろう)」などが復元されていて、さっきの竪穴住居と同じ時代のものとは思えないほど、堅牢に見える木造建築が建っています。

建物がいきなり平安時代っぽくて違和感

物資は大事なので倉と市にも物見櫓あり

吉野ケ里を攻める大変さが実感できる「環濠」

倉と市エリアを出てすこし北へ行くと、堀の中に降りられる場所があります。写真で見るとあっさり飛び越えられそうな堀ですが、人二人分ぐらいの深さがあり、柵を乗り越え、さらにこれを越えて攻め込むのは結構な労力だと感じました。

堀にハマって矢を射かけられたらおしまい

その先で見つけたのは「酒造りの家」。コメを蒸して酒を作っていたようで、普段飲む用の酒ではなく、儀式などで使うためのものだそうです。ここで、酒造り体験とかやったら良いのに、とか美味しい佐賀の酒を思い浮かべながら見ていました。

「酒造りの家」

吉野ケ里の祭りを司っていた「北内郭」

「南内郭」が政治なら、宗教的な性格を持つのが「北内郭」です。入口は南内郭よりも幻獣にピッタリと木で埋められた壁になっていて、しかも中が簡単に見えないような曲がった鍵形構造になっています。司祭や巫女などの神性さを保つために、一般人からは見えないようにしていたのかもしれません。

厳重さが他とは違う

鍵形の向こうに主祭殿が建っている

建物も、吉野ヶ里遺跡で最も立派な3階建ての主祭殿があります。そこでは、田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、大きな「市」を開く日取りを決めたりしていたそうです。

吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りのイメージ。吉野ヶ里の王やリーダー、周辺のムラの長も集合している

祖先の霊のお告げを聞く祈り。この結果が階下の王や長に伝えられた

巫女のイメージを見ていて思い出したんだが、子供の頃、小学館のマンガ「日本の歴史」を読んでいたんだ。そこで弥生時代の巻で、巫女のお父さんかなんかが敵に殺されてすごく悲しかったのを思い出した。

この吉野ヶ里遺跡で争いの痕跡を見て、妙に悲しいのは、その記憶があるのかもしれない。

そんなことを思い出しながら北内郭をぶらぶらと歩く。ここは、建物の立派さ、防衛力の高さから、吉野ヶ里で重要だったのは政治の南内郭よりも祭りの北内郭だったように思える。

頑丈そうな建物ばかり

歴代の王が眠る「北墳丘墓」

そして、その重要施設に寄り添うようにあるのが、甕棺墓列と北墳丘墓です。甕棺墓列は最大のもので長さ600mで2列になって甕棺という棺桶が並んでいるそうです。ここは、北内郭に近いこともあり、比較的身分の高い人が葬られた場所だったのでしょう。

何百もの甕棺が出土している

また、その先には四角い台形をした「北墳丘墓」があります。ここは、歴代の王が葬られた場所の上に建物を立てて保存展示している場所。実は、南のムラなどの遺構では、実際の遺跡の上に土の層を作って、そこに復元した竪穴住居や高床式倉庫などを建てていますが、ここは本物の遺構面を生で見られる場所。弥生人が王を葬るために掘った場所を自分の目で見られるのです。

南から見ると単なる台形

北側にぽっかりと入口が空いている

建物は、大空間を一望できる空間を確保するためにオクタゴン形状(八角形)で平面形状を作り出し、底面にはプレストレスコンクリート梁(PC緊張材)を用いるなどの工夫がなされています。

遺跡を生で見られる

弥生時代の真上に立てる

また、遺構面によってよりよい高湿度状況を維持し、見学者も快適な状況でけんがくできるように、遺構面と見学回廊部は独立した空調を持つ、ハイテク仕様です。

空調のダクトが見える

北墳丘墓からは14の甕棺が見つかっています。

埋葬はこんな感じだった

その中でもガラスの管玉が79個も副葬されている甕棺があり、その数は破格。かなりの権力者であったことをうかがわせます。

ガラス製品は貴重

また、剣の柄や把頭飾りまで銅製の有柄銅剣は国内でも数例しかないこれも珍しいものです。

儀式用の剣だろうか、カッコいい

遺跡を見終わったので園内循環バスで入口に戻る

遺跡の遺構はこれらの「環濠広場入口」「祭壇」「南のムラ」「南内郭」「倉と市」「北内郭」「甕棺墓列」「北墳丘墓」で全部です。

「北墳丘墓」の北部には吉野ヶ里での森と人との関わりが学べ、体験学習や、休憩等ができる「古代植物館」や甕棺墓列、古代植物の森などがありますが、歩きまわってかなり疲れたので、ここで帰ることにしました。

マイクロバスが園内を走る

バスは吉野ケ里の柵に沿って走り、「今、弥生時代にバスがタイムスリップしたらみんな驚くだろうなー」などと、戦国自衛隊的な展開を想像しながら乗っていました。

途中の水田では田起こしをやっていたようです。ここでは当時栽培されていたと考えられている古代米の田植え体験も行われています。

水田は遺構ではなく、当時の水田を推定して作られたもの

入口にあった「歴史公園センター」でも展示が見られる

公園の有料エリアの手前にある歴史公園センターでも簡単な展示が見られます。

有柄銅剣のレプリカや弥生時代についてのムービーが見られたり、土器パズルで遊んだり、弥生時代の甲冑を着て撮影だってできます。

映像展示

土器パズル

弥生人体験

吉野ヶ里遺跡は、弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)の前期から後期にかけてムラからクニへと発展した貴重な遺跡です。私は、争う人間の悲しさを感じてしまいましたが、単に数千年昔の人々の暮らしを感じられるロマンを味わう場所としても最適な観光スポットだと思います。

歩いて見て、触って、感じることのできる壮大な遺跡にぜひ足を運んでみて下さい。

■施設情報

・名称:吉野ケ里歴史公園

・料金:大人420円・子供80円

・住所:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843

・アクセス:JR吉野ケ里公園駅から徒歩12分・JR神埼駅から徒歩9分

・営業時間:9:00~17:00、9:00~18:00(6月1日~8月31日)

・定休日:無休(12月31日、1月の第3月曜日とその翌日のみ休み)

・電話番号:0952-55-9333

・駐車場:あり