明治維新後、最初の内乱の歴史を弾痕という形で残す「鯱の門」

佐賀城は、有明海から10kmほど北の平野部にある平城です。かつては外堀が幾重にも張り巡らされて、戦争になった場合は、主要部以外を水没させて守るという機能があり、「沈み城」という別名もありました。(佐賀の乱では沈ませなかった模様)

前の記事でも触れたように、佐賀の乱で最初の戦闘が勃発したのが佐賀城です。立て籠もる政府軍と佐賀反乱軍が戦闘を行った場所で、その爪痕が残されている歴史史跡でもあります。

戦闘の跡は「鯱の門」(しゃちのもん)に残る

鯱の門の外側からの眺め

佐賀の乱は明治維新後の士族の不満がつのった結果起こった反乱です。士族と言ってもすでに近代化が始まっていた日本。戦いは刀や弓矢でのものではなく、鉄砲が主流になっていました。

その戦闘の跡を見ることができるのが、かつて佐賀城の本丸があった場所に今も当時のままの姿で残る「鯱の門」です。

佐賀城に立て籠もる政府軍に対して佐賀反乱軍が激しい銃撃を加え、門の木製の扉には無数の銃痕が残っています。

明治の鉄砲でも木の扉なら簡単に貫通

ぽこぽこいっぱい穴だらけ

歴史を知らなければ、「虫食いの多い門だなー」ぐらいにしか思わないですが、その小さな穴が兵士の命を奪ったかもしれない、悲しい戦争の証拠なのです。

鯱の門の構造

門が作られたのは、1835年(天保6年)の二の丸火災の後になります。藩主の鍋島直正は、分散していた役所を集約し、行政機能を持つ本丸御殿の再建に着手し、その一環として鯱の門は1838年(天保9年)に完成しました。

構造は、二重二階の櫓門に一重二階の続櫓を組み合わせたもの。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、屋根の南北には佐賀藩御用鋳物師・谷口清左衛門作の鯱が(しゃち、しゃちほことも)が置かれます。

本丸内側から見た鯱の門

高さ1.7~1.75mの青銅製の鯱は堂々たるもので、名前の由来にもなっています。

門はその歴史的価値から「佐賀城鯱の門および続櫓」として重要文化財にも指定されています。

屋根の上に乗っかる「鯱」(しゃち)とは

城で使われている鯱は、海のギャングの異名を取るシャチではなく、空想上の生き物のことです。

鯱はボディは魚、頭は虎、体を反り返らせるように尾ひれを空に突き上げ、背中には鋭いトゲトゲが生えているというなかなかに生きづらそうな生き物です。

しかし、口からは水を吐くという伝説があり、火が厳禁な木造建築では守り神のような存在として扱われています。戦闘で火矢とか射掛けられるお城にとってはまさにうってつけの生き物なのです。

南に設置された鯱は高さ1.75m、重量210kg(北は1.70m、重量190kg)

ちなみに、名護屋城の鯱など日本各地の鯱と同じだとすると、少し大きい方がオスなので、鯱の門では南側の鯱がオス、北側の鯱がメスということになります。

いつも向かい合って、まぁ仲良さそうなので良いですね。ほんとうに。

 

防衛施設としての鯱の門は、佐賀の乱での佐賀城攻防戦では破られはしなかったようです。しかし、立てこもった政府軍は332名中137人という戦死者を出し、抗戦が厳しくなり、久留米へと撤退します。

本丸を守るという役目は果たしつつもその傷跡を残したままの鯱の門。

鯱さんはどんな気持ちで人間の愚かな争いを見ていたのでしょうか。