士族の乱の先駆けとなった佐賀の乱の傷跡が残る、佐賀城の歴史

佐賀市の中心地は、約800m四方のお堀に囲まれた佐賀城の跡地にあります。ここには、佐賀城跡をはじめ佐賀県立佐賀城本丸歴史館、佐賀県庁、佐賀県立博物館・美術館、佐賀県立図書館、村中城(龍造寺氏)跡、佐賀西高校(偏差値68で頭良い)、サガテレビ本社などがあり、まさに政治、文化、教育の中心地と言えます。

お堀に囲まれた佐賀県庁

佐賀藩の居城・佐賀城はかつて佐賀の乱の舞台となった場所。ここを楽しむためには、まず時代背景を知り、それから散策することをおすすめします。

目次

幕末・明治維新期の佐賀藩

江戸時代に龍造寺氏と鍋島氏が治めた佐賀藩は、幕末期、そして明治維新の頃には長崎警備増強のため蒸気軍艦を主力とする洋式海軍の創設を企図し、嘉永5年(1852)に理化学研究所の「精煉方」を立ち上げます。

そこでは、最初は大砲鋳造のための洋書の翻訳、薬剤や煙硝、雷粉などの化学実験から始まり、機械の試作、蒸気船、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行い、激動の幕末期は、日本でも指折りの近代化を果たしました。

佐賀藩は独自の海軍を持ち、三重津海軍所という修練を行えるドックも持っていた

しかし、徳川幕府が倒れ、明治維新がなった後は、廃藩置県(1871年)と徴兵令(1873年)により、多くの武士(士族)が失業状態になります。

士族は征韓論の成就により武士としての働きの場を夢見ますが、征韓論の急先鋒だった西郷隆盛や板垣退助らの主張は岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らには受け入れられず、彼らが中央政府を辞職して下野することでその夢も潰え、不満が爆発することになるのです。

不満をもった士族による最初の大規模内乱「佐賀の乱」

征韓論で非戦派に破れ、下野した前参議・江藤新平の征韓党、そして前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高らがおこした憂国党による反乱が「佐賀の乱」です。

彼らは最初は不満を持つ士族の怒りを収めるために佐賀入りしたのですが、政府の対応や士族の声に押されて逆に反乱のリーダーになってしまいました。

乱の直接の始まりは1874年(明治7年)2月に発生した憂国党武士による官金預かり業者・小野組とのトラブルです。

これをきっかけに政府は鎮圧命令を出し、佐賀士族が対抗する形で佐賀の乱はスタートするのです。

熊本鎮台が籠もる佐賀城の落城

政府から鎮圧命令を受けた、日本陸軍の常設部隊・熊本鎮台は佐賀城に入場します。しかし反乱軍の猛攻を受けて部隊の332名のうち137名が戦死。約3分の1が死亡するという大損害を受けます。

一般的には、部隊が組織的抵抗力を失う損耗率40%越えで全滅とみなされるので、初戦はまさに政府軍の全滅という形で幕を開けました。

政府軍の反抗

大敗をきっした政府軍でしたが、東京鎮台や現地海兵隊などの増援が到着し、一進一退だった「朝日山の戦い」、佐賀反乱軍を敗退させ江藤新平を鹿児島の西郷隆盛の元へと敗走させた「寒津川・田手川の戦い」、一昼夜続いた激戦「境原の戦い」を経て佐賀反乱軍の敗北で幕を閉じます。

この戦いは、明治維新後の日本で最初に起こった士族の反乱(内乱)であり、それ以降の、熊本・神風連の乱(1876年)、福岡・秋月の乱(1876年)、山口・萩の乱(1876年)、そして日本最後の内乱とされる西郷隆盛による西南戦争(1877年)へと続くのです。

 

さて、前置きが長くなりましたが、こーゆー歴史のある佐賀城跡をのんびりと歩いてきたのが本稿のメインです。

次の記事では、戦闘の跡の弾痕がくっきりと残る鯱の門について取り上げたいと思います。